
毎朝夕、散歩時に折り返す場所、二俣川。 川は枯れてる時もあり、増水時にはすべての石が見えなくなることもある。

屋久島に棲み始めてから20年目になりましたが、最初の17年間は親族の冠婚葬祭で4回、他に2,3回ほど島外に出ただけでした。
然したる用事もなく、遊びで島外に出かける事もなく、屋久島に居るだけで大満足していました。
2,3年前から出かけなければいけない用事が増え、好きな庭園めぐりが少しできるようになりました。
屋久島に移住する前までは庭園や襖絵などを鑑賞しによく京都に行ったものでした。
今年1月、一歩一景の美しさで有名な高松の栗林公園に行き、江戸時代に数十年かけて造り上げたという大名庭園に感動しました。
9月と12月に20年ぶりに京都を訪れ2度目、3度目と観た庭園には正直なところあまり感動を覚えませんでした。
今回訪れた建仁寺などは初めて訪れたせいか、とても素晴らしく思えました。
しかし屋久島に長らく住んでいていつも不安に思っていたことがあります。
それは「人工的に造られた庭園、屋久島のような自然が造り上げた庭園のような大自然」 その対比。
屋久島に棲んでいていつも京都には行きたいとは思っていましたが、どうしてもそのことを比較してしまう自分の気持ちに不安がありました。
結論は、当然のことながら大自然に勝るものはなし。
人間が造り出したものには飽きが来るもんなんですね。
都会の小さな公園の片隅に幼木一本、雑草数本、小石が2,3個、そこに自然の美を感ずる事ができればそれはそれなりに素晴らしいことではないだろうか。
屋久島での生活の中で何かしらの感動を毎日続けていると、普通とは違う感覚が身についてきているのかもしれないし、
自分の未熟さが露呈したのかもしれません。

高松、栗林公園

